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第3章 月のない夜-5-
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月の見えない夜はなぜか不安になる。
昔からそうだ。
大自然に囲まれた風の谷は、夜になると静寂な闇が大地を覆う。
各家々には必要最低限の灯りしか灯らず、一歩外に出れば真っ暗だ。
頼れるものは月明りのみ。
弧を描く月は昔から力の循環を司る形とされ、月の満ち欠けがラグナの力になんらかの影響を及ぼすとされていた。
月が満ちればラグナの力は増大し、欠けると共に弱まっていく。
新月の晩はラグナの力が最も弱くなる時。
だからおのずと、月のない夜は外に出ることを控えていた。
先ほどまで海原を照らしていた銀色の月は、いつの間にか暗雲に隠され、小さく切り取られた部屋の窓から見える外は漆黒の闇だ。
月が見えないから不安なのだ、と。
自分の心に言聞かせアイシェはぎこちなく身体を立直させ、扉の前に突っ立っていた。
背後でバタン、と扉の閉まる音がひと際大きく耳に響く。
「まさかこんな事になるとは思わなかったな」
ひやりとした空気が頬を撫でて、アイシェは体を震わせた。
大判の掛け布を片手に部屋の隅から戻ってきたジェイが、
「ほら、風邪をひく」
と、頭からそれを被せてきた。
背中の半ばまである髪は水分を含んで重くなり、衣服もしっとりと濡れている。
滴る雫を軽く拭うと、寒さが幾分かマシになったように思えた。
同じように濡れた頭を乱雑に拭き取りながら、ジェイは濡れた上着を脱捨てた。
それがやけにリアルに見えて、アイシェは思わずあからさまに視線を外した。
ついこの間までは同じ部屋で寝泊りしていたというのに…。
その時はまだ、男女の関係などには程遠かったし、そんな雰囲気にはならなかった。
意識もしていなかった。
けれど今は違う。
こんな時、夜更けに男の部屋に入るという行為は、そういう意味に取られはしないだろうか。
急に意識し出した身体がドクドクと波打ち、冷え切っていたはずの身体が熱を帯びた。
「アイシェ?」
気がつけば、とっくに着替えを終えたジェイがひどく間近で覗き込んでいた。
瞳に映る自分の姿が確認できるほどに。
「まだそんなにびしょ濡れで…。風邪、引くだろ?」
呆れたように薄く微笑むと、アイシェの肩に掛けた布で髪や頬の雫を丁寧に拭きとっていく。
「着替えたほうがいい。気になるのなら、俺、外に出てるし」
「…平気」
意識していることを気付かれたくなくて、アイシェは平然を装ってジェイの差し出した乾いた衣服を手に取り、後ろを向いた。
カサカサと衣服を脱ぐ音が耳にこびりついて、妙に心をざわめかせる。
出来るだけ音が出ないように静かに静かに衣類を脱ぎ去り、用意してくれた衣服に袖を通す。
そっと後ろを覗き見ると、ジェイは何事もないように酷く不自然な表情であらぬ方向を向いていて、それがおかしく思えて小さく笑う。
「おいで」
そう言ってベッドの上を軽く叩かれた。
その言葉にどういう意味が隠れているのだろうと、一瞬考えたが、それは穏やかに笑いかける優しい表情にかき消された。
招かれるままに、ベッドのふちにそっと腰を降ろすと、そのまま優しく身体を横たえられた。
「眠っていいよ。ずっと眠れてないんだろう?」
髪をほどく指が、何度もやさしく髪の中を撫でていく。
「…気付いてたの……?」
「目の下のクマ。それに、いつも遅くまで部屋に灯りが灯ってた」
朝方近くまで、と小さく笑う。
「灯りが消えるまで、ってそれを目安に細工に没頭してたからさ、おかげで俺も寝不足…」
薄く笑みを漏らした唇から、欠伸が零れた。
指が目のふちを撫でて、そのままアイシェの前髪を掻きあげると、額にそっと唇を落とす。
「眠れなかった理由はこれか―――?」
ゴツゴツとした、けれど繊細な指が薬指にはめられた指輪に触れた。
「不安そうに指輪に触れる姿を、甲板で何度か見かけた。ずっと気にはなってたけど、声を掛けられなくて。何か変わったことはないか?」
伸ばしたてのひらをそっとつかまれた。
―――誰かに見られているような違和感。
それは確信ではないけれど、まるで目に見えない何かが体に纏わり付くような奇妙な感覚が絶えず押し寄せていた。
常に気を張り詰めていないといけない緊張と恐怖。
ずっと誰かに相談したかった。
嘘でもいいから、大丈夫だと言って欲しかった。
手を伸ばせば、それを握り返してくれる人が側にいる―――。
もう、それだけで十分だった。
不安を煽るような発言で、もうこれ以上、心配をかけたくはない。
「平気。何ともないから…」
誤魔化すように笑いかけて、大きく息を吸い込んだ。
気付いてくれていたのが嬉しくて、感情が溢れそうになって唇を噛み締めたら、目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
涙が零れそうになるのを悟られないように、トンと胸に頭を寄せる。
どうか泣きそうになる気持ちに気付かないで、と切に願う。
「アイシェの“平気”は、当てにならないからな」
ジェイが困ったように笑った。
この人のこういうところをズルイと思う。
いつも欲しい言葉を簡単に口にしてしまう。
「…絶対に、外してやるから―――」
包み込むように触れた手のひらに、唇が触れた。
その濡れた感触に唇を噛んだ。
声がこぼれそうで、震えが走る。
見上げたら青の瞳と視線が合わさって、数秒間見つめられた後、引き寄せられるように唇が重なった。
何度か確かめるようになぞられた後、深く探られる。頭の芯がじんとして、何も考えられなくなる。
(どうしたらいいのかわからなくなる。
自分のことよりも何よりも、私のことを優先させてしまうだろうから。
だから、怖い―――。)
最後になぞるように唇に触れた後、名残惜しそうに顔が離れた。
乱れた息を落ち着かせるかのように、アイシェの頬や額に触れるだけのキスを繰り返す。
「…あのな。そういう目で見上げるの、ナシな。煽られてる気分になる」
ため息混じりの声が聞こえて、心底参ったという表情で、ジェイが頭を掻いた。
「いくらなんでも俺だって、部屋に連れ込んだからって、いきなり押し倒すようなマネはしねーよ…って。外であれだけ触れておいて言うのもなんだけど…」
と慌てて言葉を付け加える。
「そりゃもちろん、オレだって男だからそういうコトもしたいって思うけど…今は体を休めることの方が先」
照れたように笑って、優しい声でそう告げられた。
覗き込んだ瞳が優しく細められて、ぬくもりに包まれる。
「眠って―――」
頭の上で響く声は心まで溶け込んで、まるで身体が壊れてしまったかのように身体中に広がって痺れをもたらす。
その痺れに酔いたくて、もっと温もりを感じたくて、アイシェは自分を抱きしめる力強い体を強く抱きしめた。
負担が多すぎるその身体は知らず休息を求めて、眠りの世界に誘われる。
安らぎを促すような温かな存在に、身を委ねて…。
>>To Be Continued
*このお話のサイドストーリーはコチラ。
『触れたいけど、今は』