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第4章 帰郷-6-
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最初は触れるだけのつもりだった。
けれど一度、触れてしまうともうそこからは止まらなくなる。
すやすやと心地の良い寝息を立てるアイシェに覆い被さるように、リンカーンは唇を重ねた。
眠る前にアイシェが飲んだ山羊のミルクには、安定剤が混入されていた。
朝までぐっすり眠れるようにと、祖父ガランから指示されたものだ。
だからちょっとやそっとのことで、アイシェが目を覚ますことはない。
深いキスは続く。
落ちた前髪がアイシェの額を撫でる。
まるで枷が外れたみたいに深く貪るようなキスが続いて、しばらくすると「ん…」とアイシェの唇から苦しそうな声が漏れた。
ゆっくりと身体を離すと、ぼんやりと目を開けてこちらを見つめているアイシェと視線がぶつかる。
潤んだ翡翠の瞳が視線を絡め取った。
「―――リンカー…ン…?」
夢と現実との狭間を彷徨うかのように、アイシェの唇が不安げに動いた。
濡れた唇がやけに生々しい。
暗闇でよく見えないのか、それとも寝ぼけているのか。
腕を伸ばしてそれを確かめようとする。
「大丈夫。全部夢だ―――そのまま、眠って」
そう言って優しく頭を撫でてやると、素直に目を閉じた。
疲れた身体は正直で、溶けるように眠りについてしまう。
それを見届けてから安堵の溜息をつくと、伸ばした手をそっと包み込み、その指に唇を押し当てた。
無抵抗なアイシェの唇を奪うなんて、良心に反することだ。
けれど、どうしても止まらなかった。
しばらく離れている間に彼女は変わった。
無邪気で愛らしく、素直な気質はそのまま。
なのにふとした仕草や表情がやけに大人びて、艶を帯びていた。
初々しさの中にも匂い立つような色気がある。
何が彼女をそんな風に変えたのか。
聞かずとも分かる。口に出したくもない。
いつも笑みを絶やさない唇は、今は安心しきってぽっかりと半開きになっている。
無防備であどけない姿。
自分を兄のように信頼し、安心しきった寝顔。
リンカーンにとってアイシェはずっと特別だった。
このままここに閉じ込めて、誰の目にも触れない安全な場所で守ってやりたい。
アイシェの側に寄り添って、自分の温もりで彼女の寂しさを静めてやれたらどんなに幸せだろうか。
でももうそれは、自分の役目ではないことをアイシェと再会した瞬間に察した。
勘が鋭いというのはいい事ばかりではない。
自分の事に関しては特に。
ベッドサイドに手を伸ばし、灯りを最大限まで落とす。
ぽっかりと明いた窓の向こうから、満ち始めた月が部屋を照らす。
月明かりがアイシェの肌をひときわ美しく見せる。
この唇や首筋に、その男は何度口付けたのだろう―――。
ふいに湧き上がった淫靡な妄想を振り払い、リンカーンはベッドから腰を上げた。
それから身を屈めて、子どもにするようにアイシェの頬にキスを落とす。
「お前は必ず、俺が守ってやる…」
まるで自分に言い聞かせるように強く呟いて、リンカーンは部屋の扉を閉めた。
□
(―――どうして…違う匂いがするの?)
アイシェは頭の片隅でぼんやりと思った。
ふわふわと心地よく揺れる夢の狭間で薄っすらと目を開けると、力強い腕がアイシェを掻き抱いた。
その人を確認する前に、腕に抱きすくめられ、閉じ込められる。
熱い唇がアイシェの唇をこじあけ、侵入し、舌を絡ませる。
「愛してる」と耳元で囁かれ、耳朶を優しく噛まれた。
優しく口付けられる。
何度も何度も。
微かに感じるラグナは、よく知っている人のものだと思う。
絶えず側にあって自分を包み込むような存在。
最初に微かに感じた違和感も、包み込むような温かなラグナの波長で拭い去られる。
「アイシェ―――」と。
耳の側で何度も何度も優しく呼ばれる。
低く優しい声で。
その心地の良さで、夢ならばこのまま覚めないでほしいと願い腕を伸ばす。
その手が何かに受け止められ、アイシェは薄っすらと目を開けた。
翡翠の瞳に淡い影が映り込む。
「―――リンカー…ン…?」
「全部夢だ―――そのまま、眠って」
優しく頭を撫でられる。
そう、これは夢だ。
だって自分はジェイの腕のぬくもりの中で、眠っていたはずなのだから。
そう自分に言い聞かせ、アイシェはまた瞳を閉じた。
眠りは深い夢の底に辿りついて、もうこれ以上、夢を見ることはなかった。
□
ノックの音と、天窓から差し込むまばゆい陽の光でアイシェは目を覚ました。
微かにいい匂いが漂う。
祖父ガランかリンカーンが朝食の準備でもしているのだろう。
しばらくして、またドアが叩かれた。
「アイシェ?起きてる…?入ってもいい?」
扉の向こうから控えめに呼ぶ声。
まだ薬の利いた気だるい体をのろのろと起こし、乱れた髪を手で整えると。
「どうぞ」
扉の向こうに声を掛けた。
キィ…と数センチ開いた扉の向こうから、遠慮がちに覗き込んでこちらを伺うよく見知った顔。
「…ラステル―――?」
声を掛けるとその顔がパッと輝いた。
「本当にアイシェだ!戻ってきたのね!」
ようやくいつもの元気を取り戻したかのように、少女が嬉しそうに声を上げ駆け寄ってきた。
丸く切りそろえられたおかっぱ頭に、小さく丸い目。
軽くそばかすの浮き出た頬を赤く高揚させて、部屋に飛び込んできた。
幼い頃からの親友、ラステルだ。
「アイシェが村に戻ってきたって昨晩、村の噂で聞いて…。すぐにでも飛んできたかったんだけど、さすがにその日じゃ…ねぇ?」
肩をすくめて笑う。
いたずらっぽくはにかむような笑顔は昔から変わらない。
何だか懐かしく思えてアイシェは目を細めた。
「早朝から押しかけるのは、マナー違反じゃないのか?」
背後から降って沸いたような声に、ビクとラステルが肩を震わせる。
うわっと短く呟いて、その人物の登場に苦い顔をする。
「目が覚めたか?気分はどうだ?」
トレイの上にカップを乗せて、リンカーンが扉を開けて入ってきた。
「おはよう、リンカーン。気分は随分といいわ」
ベッドの横に膝を付いて、そっとアイシェの髪をかき上げて顔色を伺う。
「ガラン殿が煎じた薬だ。疲労に効く。苦いけど全部飲んでおけよ」
「うん」
「朝食が出来てる。部屋で食べるか?」
「ううん。後でそっちに行くから、先に食べてて」
「…わかった」
短くそう告げて、音もなく部屋を出て行った。
サイドテーブルに置かれたカップから、何ともいえない漢方独特の匂いが部屋に立ち込める。
「相変わらず過保護だね、リンカーン。それに堅い!
あんな融通の利かない人と一緒に住んでて、嫌にならない?」
わざわざ扉の側まで行ってリンカーンが近くにいないことを確認してから、ラステルが顔をしかめた。
「リンカーンは昔から、ああだから…もう慣れちゃった」
苦笑しながらアイシェは肩をすくめる。
「あたしだったら息が詰まるけどなー。アイシェも帰ってきたし、これからまた頻繁に会わなきゃいけなくなるのかぁ。もう、うんざり…」
心底嫌そうに顔を歪めて、ラステルが頭を抱え込んだ。
「ていうか。ホント、リンカーンの言う通りだよね。ゴメンネ、朝っぱらから…。アイシェが帰ってきたって聞いて、いてもたってもいられなくて…」
「ううん。来てくれて嬉しい」
そう言って笑いかけたとたんに、ぎゅっと抱きしめられた。
「ホント無事でよかった…。おかえり、アイシェ」
喜びに顔を滲ませて耳元でそう告げられて、胸の奥がジンと暖かくなるのを感じた。
ラステルの笑顔を見ていると、村に戻ってきてよかった…と心からそう思える。
「ラステル、ありがとう…」
それは心からの言葉だった。
自分をずっと心配してくれたであろう親友に向けての。
ラステルはくすぐったそうに笑いながらアイシェを覗き込んだ。
「聞きたいことは山のようにあるんだけど…。アイシェが朝食の席に来なかったら、またリンカーンが来ちゃいそうだから、一度家に戻るね」
「うん」
「落ち着いたらうちに来てよ。見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
「そう。すごくいい物!きっとアイシェも気に入ると思うわ」
「なあに?」
「それは見てのお楽しみ。だから絶対、後で来てね!」
パチンとウインクを残して、ラステルは慌しく部屋を出て行った。
ラステルのリンカーン嫌いは昔から変わらない。
自分の思いに率直で落ち着きのないラステルに、リンカーンはことごとく小言をきかせた。
子どもの頃の嫌な記憶が、今でも彼女の中に深く根付いているのだろう。
おかしさと懐かしさで、笑みが零れる。
掌の上で当たり前に増えていく日常。
昔と何も変わらない穏やかで幸せな日々を取り戻した。
なのに、心の奥にぽっかりと穴が開いたように物足りない。
家族や友達に囲まれていても、寂しくて仕方がないのだ。
ジェイのいない日常に、いつかは慣れる日が来るのだろうか…。
抱きしめて何度もキスをしてくれたのは、やはり夢だった。
現実に戻され胸の奥がツキンと痛む。
「…ジェイ」
膝を抱えてうずくまるように泣いた。
アイシェの胸でジェイから送られた首飾りが鈍い光を放っていた。
>>To Be Continued